まとめ

『晋書』に呉の太伯の子孫とあるから、宝誌は周と同じ姫氏だということで姫氏国と呼んだものだとしつつ、これを付会の言にすぎないと切り捨てている」。ここに、日本の古代史研究の問題点が凝縮されている。結論ありきである。内倉武久氏は「学会の学問以前のきわめて日本的な人間関係ではないでしょうか。・・・違う意見は徹底して無視する。」と纏められている。「大廻り小廻り山城の古代山城名説は中西厚氏の菊山城説のみである。中西厚説は正しいと報告したい。

『姓氏家系大辞典』の「キ」

 「紀氏は太古以来の大姓にして」とし、紀キは「木・イ+己・記・城に通じ用ひられ、中世以来、其の韻を添へて紀伊につくる。よりて城井・基肄・紀井等にも通ず。」「肥前国に基肄城(きい)、筑前に記夷城あり、皆古くはキなり。魏志東夷傳に鬼国見ゆ」とある。
播磨備前の紀氏の説明もされている。

「東海姫氏国」考

神野志隆光氏(東京大学教授)は、「東海姫氏国」考の冒頭に「東海姫氏国あるいは姫氏国が、この国の呼び名(国号)の一としてあったことは、『日本書紀私記』『日本書紀纂疏』等に見るところである。現在、それについて正面から取り上げられることは無い。取り上げるほどのこともないという扱いである。」と説明している。
天理図書館善本叢書『日本書紀纂疏 日本書紀抄』に「日本の別号を十三項にわたって取り上げた。その第五である纂疏は、まず『晋書』に呉の太伯の子孫とあるから、宝誌は周と同じ姫氏だということで姫氏国と呼んだものだとしつつ、これを付会の言にすぎないと切り捨てている」。比較的近年に包括的に国号を論じた岩橋小弥太『日本の国号』にも姫氏国は取り上げられていない。

『野馬台詩』「東海姫氏国」

 「東海姫氏国」の初見は『野馬台詩』である。著者は5~6世紀の中国梁の武帝時代の僧宝誌和尚(418~514年)である。伝説化された僧である。
小峰和明氏(立教大学教授)は「不思議なテキストがある。五言二十四句の短い詩であるが、もともとばらばらに並べかえられ、そのままでは読めないようになっている。しかもその内容は、日本の終末を予言する物で、未来記と呼ばれるテキストの一種であるとされている。」と序に書いている。中世では「やまとし」と呼ばれ日本の古称「やまと」の語源に深くかかわるテキストである。
『野馬台詩』に「東海姫氏国」と記述されている。小峰和明氏は「姫氏は『史記』周紀「別姓姫氏」などを見るが、これも日本の女帝のイメージがかぶせられるようになる」。と説明している。『野馬台詩』を引用するのは『日本書紀私記零本』である。天照大神や神功皇后が女であることから「姫氏国」の名が出たとしている。

『日本書紀私記零本』「姫氏国名者。倭国之名也。」

『日本書紀』は平安時代に、721年~965年の7回の講書が行われた。
『日本書紀私記』は、『日本書紀』を講した博士の私記である。『日本書紀私記零本』に、「姫氏国名者。倭国之名也」。とあり、倭国が姫氏国と呼ばれていたとの記録である。
『中国姓氏辞典』に、「姫キ : 周朝の宗室がこの姓を用い」とあり、周(BC1046頃 - BC256年)は、殷を倒して王朝を開いた。国姓は姫(キ)とある。「キ」とは呉国からの渡来人「姫(キ)」氏のことである。姫(キ)氏は、「紀・木・鬼・基・城等」と表記されている。 

『紀氏は周王朝の子孫説』日根輝己説

 日根輝己氏(和歌山県地方新聞協会会長)は、「紀氏は何処からやってきたのか」の調査結果として、「紀氏は周王朝の子孫説」を主張している。要点は、「紀氏は中国の古代国家・周(BC1100~BC256)と、周の滅亡後分裂した国の多くを建てた姫氏の血をひく一族だろう。朝鮮南部の伽耶を経由して日本に渡来、九州中央部の佐賀県基山町附近や、熊本の菊池川流域を拠点に根を張り、西日本全域に勢力を広げた。南河内に進出したあと、紀州に居を移した。そして、紀の王国を作った。」である。
 「日根輝己氏の仮設は、東アジア全体を巻き込んだ人間の大移動を推測した壮大な仮説で、いまだかって誰も唱えたことがない新説だ。この部分はまだ考古学的な裏付けや文献上での直接的な証拠はないようだが、状況証拠としてはありえぬことではない。」と内倉武久氏(元朝日新聞記者)は説明している。日根輝己氏は証拠として4説を上げている。
① 8世紀の好字令で地名が2字に改められたが、紀氏は頑として変えなかった。「キ」という氏族名に大変なプライドを持っていた。
② 『魏志倭人伝』に、「倭人は自ら大夫(たいふ)と名乗っていた。」とある。大夫とは周王朝の官位の一つである。
③ 『魏志倭人伝』に、「呉の太伯の子孫と名乗った」とある。
太伯は周の大王の長男であり、呉の王家も姫姓を名乗っていた。
④ 紀と姫は字は違うが、音は両方とも音はキである。
日根輝己氏は「古代の謎に挑戦すると、必ず紀氏と伽耶に突き当たり」と報告している。
日根輝己説に追記すれば、③の太伯地名があるのは吉備国のみであり、朝鮮南部の伽耶を経由して吉備国に渡来である。

肥後 鞠智城(きくち)からの推定

鞠智城は、7世紀後半に大和朝廷が築いた山城である。『続日本紀』に記載されている。663年の「白村江の戦い」に大敗した大和朝廷が日本列島への侵攻に備え西日本各地に築いた城の一つである。九州を統治していた大宰府やそれを守る大野城・基肄(きい)城に武器・食糧を補給する支援基地とされている。周囲長3.5kmは大廻り小廻り山城の周囲長3.2kmに近似している。面積55ha。八角形建物跡や72棟の建物跡、貯水池跡、土塁跡などが発見されている。

古代山城名の推定として「菊山城」説

大廻り小廻り山という名称は江戸時代であろう。
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古代山城名の推定として「菊山城」説がある。中西厚説である。大廻り小廻り山の山裾にある瀬戸町菊山(きくやま)に注目された。「菊山は山裾にある地名である。山ではないのに、何故、山がつくのか。」である。
古代山城には、「キ」の字の付く山城が多い。「播磨 城山(きの)・讃岐 城山城(き)跡・備中 鬼ノ城山城(きの)・肥前 基肄城(きい)・肥後 鞠智城(きくち)と、「キ」の付く山城が5城ある。「キ」は「城・鬼・基・鞠」と表記されている。
「キ」は何を意味しているのかに2説ある。1説は「キを城とする古代朝鮮語説」である。しかし、古代朝鮮語と称されるのは、10~15世紀に使用されていた中世の高麗語である。古代朝鮮語の音は不明である。最初に「キ」の付く山城に注目されたのは葛原克人氏(岡山県古代吉備文化財センター)である。「キを城とする古代朝鮮語説」である。

肥後 鞠智城(きくち)との関連

鞠智城は、7世紀後半に大和朝廷が築いた山城。 『続日本紀』記載。663年の「白村江の戦い」に大敗した大和朝廷が日本列島への侵攻に備え西日本各地に築いた城の一つ。 九州を統治していた大宰府やそれを守る大野城・基肄(きい)城に武器・食糧を補給する支援基地。周囲長3.5km、面積55ha。 八角形建物跡や72棟の建物跡、貯水池跡、土塁跡などを発見。

古代山城名の推定 菊山城説  「キ」は何を意味しているのか。

古代山城名の推定 
菊山城説  「キ」は何を意味しているのか。
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「播磨 城山(きのやま)・讃岐 城山城(きやま) 跡・備中 鬼ノ城山城(きの)・肥前 基肄城(きい)・肥後 鞠智城(きくち)と、『キ』の付く山城が5城ある。
『城・鬼・基・鞠』と表記されている。

キを城とする古代朝鮮語説がある。
古代朝鮮語と称されるのは、10~15世紀に使用されていた中世の高麗語である。

瀬戸町菊山(きくやま)に注目。
  菊山は山裾にあり、山ではないのに何故、山なのか。
  中西厚説

突厥国と黄蕨(きび)国

10月8日の先史古代研究会での講演後、突厥国の範囲がわからないとの指摘を受けました。
突厥国の分裂により、黄蕨国へ渡来したというのが私の説です。

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「キ」は何を意味しているのか。に追記しました。

「播磨 城山(きのやま)・讃岐 城山城(きやま) 跡・備中 鬼ノ城山城(きのじょう)跡・基肄城(きいじょう・佐賀県三養基郡)と『キ』の付く山城が4城あります。
城・鬼・基と表記されています。
キを城とする古代朝鮮語説があります。古代朝鮮語と称されるのは10~15世紀に使用されていた中世の高麗語です。

『日本書紀私記零本』 姫氏国名者。倭国之名也。

『日本書紀』は平安時代に、721年~965年の7回の講書が行われた。『日本書紀私記』は、 『日本書紀』を講した博士の私記です。
『日本書紀私記零本』に、
姫氏国名者。倭国之名也。とあり、倭国が「姫氏国と呼ばれていた」という記録です。  
『中国姓氏辞典』に、「姫キ : 周朝の宗室がこの姓を用い」とあり、周(BC1046年頃 - BC256年)は、殷を倒して王朝を開いた。国姓は姫(き)。
「キ」とは呉国からの渡来人「姫(キ)」氏のことです。
「姫(キ)」氏は、紀・木・鬼・基・城等と表記されます。

備後の二城が『続日本紀』に記録され、備中・備前が記録されていない理由は、を追記しました。

『続日本紀』養老3年(719)12月の条 「備後国安那郡の茨城(いばらき)、葦田郡の常城(つねき)を停む」。 719年での廃城記録。二つの山城の機能を完全に停止させたという記録。
廃止するということは、城を持って敵を防ぐという防御網を破棄したことを意味している。狩野久説(岡山大学教授)
常城
 広島県芦品郡新市町大字常と府中市本山町にまたがる標高約500mの火呑山。
茨城
 福山市の北方、蔵王山と地主山に比定。
    豊元国(府中高校教諭)説 『奈良時代山城の研究』 1968年

備後の二城が『続日本紀』に記録され、備中・備前が記録されていない理由は、備後の重要性にあります。

① 尾市1号古墳(新市町) 正八角形墳(対角長15m)
② 芦田川下流域(福山湾岸)に、「吉備品治国」と「吉備穴国」が6世紀後半に成立。

吉備国に4つの古代山城 備後の二つの山城の記録

『続日本紀』養老3年(719)12月の条

「備後国安那郡の茨城(いばらき)、葦田郡の常城(つねき)を停む」。
719年での廃城記録。二つの山城の機能を完全に停止させたという記録。

廃止するということは、城を持って敵を防ぐという防御網を破棄したことを意味している。
狩野久説(岡山大学教授)

常城
 広島県芦品郡新市町大字常と府中市本山町にまたがる標高約500mの火呑山。

茨城
 福山市の北方、蔵王山と地主山に比定。
    豊元国(府中高校教諭)説 『奈良時代山城の研究』 1968年

備後の二城が『続日本紀』に記録され、備中・備前が記録されていない理由は、備後の重要性にあります。

① 尾市1号古墳(新市町) 正八角形墳(対角長15m)
② 芦田川下流域(福山湾岸)に、「吉備品治国」と「吉備穴国」が6世紀後半に成立。

古代吉備国の領域と特色

律令制下

備前・美作・備中・備後・広島県の東半部をも含む範囲
中部瀬戸内圏域をすっぽり覆う範囲が吉備国である。

特色

① 穀倉地帯           ⇒ 農業生産基盤   呉国からの渡来人
日本最古の水田⇒ 津島江道遺跡・百間川遺跡(3Kmに渡る弥生水田址) 

② 製塩土器(児島中心) ⇒ 塩作り      ⇒ 広く周辺地域にも供給

③ 鉄鉱石による古代製鉄  ⇒ 製鉄技術      突厥国からの渡来人
   大蔵(おおぞう)池遺跡(最古の製鉄遺跡)    ⇒ 6世紀末~7世紀初

④ 三大河川による物流    ⇒ 流通交易の適地 

吉備国に4つの古代山城 備中と備前の二つの山城の記録

備前 大廻り小廻り山城

① 築城目的の明確化

② 何故、草ケ部に築城されたのか。

③ 誰が造ったのか。

④ どうして歴史に記録されなかったのか。

特長

発掘調査で、城郭施設、建物、防御用遮蔽設備である柵、板壁等が全く検出されなかった。

⇒ 黄蕨国の迎賓館説。

① 備中 鬼ノ城との比較検討

② 大和政権と吉備国の関係の明確化が必要。

築城した山の高さに注目

築城した山の高さが備中 鬼ノ城と異なっている。

① 山の高さは、防御の優劣と築城に関わる労力に関係してくる。

② 本来、瀬戸内の山城は、瀬戸内を進攻してくる軍船を見張り、威嚇する役目があった。

シーレーン防衛説

シーレーン防衛説
  朝鮮半島から博多へ来て、博多から瀬戸内海を通るシーレーン防衛の為、築城した。
   出宮徳尚説(就実大学)

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正史に記録されている山城 白村江の戦いに大敗

663年の朝鮮半島の白村江(はくすきえ)の戦いは斉明女帝の戦争。

660年に百済が唐と新羅に滅ぼされた。
倭国は百済と有効関係にあった。

百済復興のために王自らが戦争に赴く(親征)
最高指揮官は中大兄皇子(後の天智天皇)
戦争に突き進み、遂に壊滅的な打撃

天智2年(663)8月の白村江の戦いに大敗。

『旧唐書』「その舟四百艘を焚き、煙焔(えんえん)天にみなぎり、海水皆な赤し」と記録されている。

戦死者の血によって海の色が真っ赤にそまったという状況描写である。
倭国の兵は三万七千人。捕虜になった兵もいます

8世紀以前に大量兵士の海外派兵 救軍

日本古代史の対外関係を考える上で重要。

 『日本書紀』は救軍(すくいのいくさ)と記す。

 百済、任那から見れば、まさに救軍。

 救軍は朝鮮三国との関係か。

 6~7世紀に記録されている。

 倭国軍は筑紫、大宰、九州に駐留していた。

 白村江以降、海外派兵は稀になった。

 天皇が殺されても九州の兵隊は動かしてはいけない。

 荒木敏夫説(専修大学教授)

白村江敗戦後の山城築城

中大兄皇子の非常時王権

斉明女帝死去は斉明7年(661)~中大兄皇子即位の天智7年(668)迄は大王位は空白であった。

この期間、西日本各地に多くの山城が築城された。

古代日本の防衛体制確立のための築城である。

唐国が襲ってくる恐怖。

防人

『日本書紀』天智3年(664)12月条に、

「対馬、壱岐に防人ととぶひを置き、大宰府に水城を築く」とある。

遣唐使の派遣 2000人

659年の遣唐使の拘留理由

    来年百済を攻めるので帰国させない。

天智10年(671)の遣唐使派遣人数 2,000人の意味するもの。

中大兄皇子は必死に、唐や新羅と交渉。

敗戦という不利な条件下の交渉。

天智7年(668)高句麗の滅亡。

朝鮮半島の領有に関する唐と新羅の意識のズレ

天智7年(668)9月、新羅が656年以来、倭国王に形式上の臣下の礼を持って調を持参。

高句麗滅亡後の朝鮮半島の領有権を有利にするために、倭国と手を結ぶ為の外交である。

天武5年(676)頃には、新羅が朝鮮半島統一完成。

荒木敏夫説(専修大学教授)

黄蕨国の活躍説

この時期に活躍したのが黄蕨国である。 吉備国の語源は羈縻(きび)である。
直接、唐の情報を羈縻政策により入手していた。
黄蕨国と大和朝廷とのパワーバランス。
丸谷憲二説

女帝

新羅の二人の女帝

     善徳(在位 632~647)

     真徳(在位 647~654)

唐の女帝 則天武后(在位 690~705)

倭の女帝 持統天皇(在位 690~697)

天武・持統の時代 遣唐使を派遣していない。
  
亡命百済人、高句麗系の者から情報入手。

荒木敏夫説(専修大学教授)

完成していた山城

筑前 大野城

肥前 基肄城

肥後 鞠智城

対馬 金田城

備中 鬼ノ城

豊前 御所ケ谷神籠石

記録に残る山城は完成していた。重要な場所に築城されている。

讃岐 屋嶋城跡は不明

長門 高安城も詳細不明

亀田修一説(岡山理科大学教授)

古代山城は完成していたのか。 未完成の山城・「見せる城」

豊前 唐原山城

筑前 阿志岐山城

筑前 鹿毛馬(かけのうま)神籠石

筑後 女山(ぞやま)神籠石

肥前 おつぼ山神籠石

播磨 城山(きのやま) ⇒ 城牟礼(きむれ)山か。『播磨国風土記』

周防 石城(いわき)山神籠石

讃岐 城山城跡

神籠石グループ 未完成説

土塁が見当たらない。⇒ 未完成。

   もともと見える部分しか造る気がなかったのではないか。・・・「見せる城」

   向井一雄説(古代山城研究会)

瀬戸内型と九州型

瀬戸内型

一番山の高いところを含んで、その裏側に回って低いところに水門がある。
防御正面が非常に低いところにある。

九州型

山の上に鉢巻状に土塁をめぐらしている。

大廻小廻神籠石は、瀬戸内型である。

百済にその技術の根源がある。

(坪井清足氏説)(元奈良国立文化財研究所長)

名前の分からない城 16ヶ城有り。

特徴 列石があり、城内に建物がない。 

亀田修一説(岡山理科大学教授)

大廻小廻神籠石

神籠石(こうごいし)式山城とは

九州から瀬戸内地方にみられる石垣で区画した列石遺跡。

「日本書紀」「続日本紀」に記録がない遺構でしか存在を確認できない山城。

高良神社(福岡県久留米市御井町1番地)の本殿辺りに列石の大きなものがある。

高良山には高木神(高御産巣日神、高牟礼神)が鎮座しており、高牟礼山(たかむれやま)と呼ばれていた。
高良玉垂命が一夜の宿として山を借りたいと申し出て、高木神が譲ったところ、玉垂命は結界を張って鎮座した。
山の名前説は高牟礼から音が転じ、良字の二字をあてて「高良」山と呼ばれるようになった。

鬼ノ城

鬼ノ城築城に朝鮮半島からの渡来人を動員

   当時の日本人だけでは築城無理。

   古代の賀夜(かや)郡である。

   他地域に無い構造物を造った。

    亀田修一説(岡山理科大学教授)

鬼ノ城 (397m)

   1971年 高橋護氏 列石と水門を発見
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韓国古代城郭と倭国山城

大きさが異なる。

百済地域の山城は周囲1km

草ケ部城塁 約 3.2Kmと日本の方が大きい。

6世紀に新羅の築城が多い。 朝鮮半島統一過程で築城している。

向井一雄説(古代山城研究会)

犬墓山

犬墓山より鬼ノ城を監視していた。

  丸谷憲二説 犬墓山とは和気氏を意味する。

別部の犬(『播磨国風土記』讃容郡) 鉄を生ずる「十二の谷」を発見したのが「別部の犬」である。

別部(わけべ)も部民の名である。

人でありながら犬を自称し、犬の子孫であり、鉱物を探し出す部民である。

鬼ノ城北門から見た犬墓山(443m)

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肥後 鞠智城(きくち)との関連

鞠智城は、東アジア情勢が緊迫した7世紀後半に、大和朝廷が築いた山城。『続日本紀』に記載。
663年の「白村江の戦い」で唐・新羅の連合軍に大敗した大和朝廷が日本列島への侵攻に備え西日本各地に築いた城の一つ。
九州を統治していた大宰府やそれを守るための大野城・基肄(きい)城に武器・食糧を補給する支援基地。
周囲の長さ3.5km、面積55haの規模をもつ城で、昭和42年度からの発掘調査により、八角形建物跡をはじめとする72棟の建物跡や、貯水池跡、土塁跡など、当時の姿を物語る貴重な遺構が相次いで発見されている。

古代山城名の推定 菊山城 「キ」は何を意味しているのか。

「播磨 城山(きのやま)・讃岐 城山城(きやま) 跡・備中 鬼ノ城山城(きの)・肥前 基肄城(きい)・肥後 鞠智城(きくち)と『キ』の付く山城が5城ある。
城・鬼・基・鞠と表記されている。

キを城とする古代朝鮮語説がある。
古代朝鮮語と称されるのは10~15世紀に使用されていた中世の高麗語である。

瀬戸町菊山(きくやま)に注目。



 

『日本書紀私記零本』 「姫氏国名者。倭国之名也。」

『日本書紀』は平安時代に、721年~965年の7回の講書が行われた。『日本書紀私記』は、 『日本書紀』を講した博士の私記です。

『日本書紀私記零本』に『姫氏国名者。倭国之名也。』と記録されています。

倭国が「姫氏国と呼ばれていた」という記録です。

承平度の講書(936~943年)初見説があります。

「キ」とは呉国からの渡来人姫(キ)氏のことです。

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発見者 荒木誠一 先生

荒木誠一氏

   (明治18年~昭和11年)

  『改訂赤磐郡誌』 昭和15年発行の著者

朝鮮式山城説

白村江の戦いに失敗してより、一時朝鮮より手を引いたが、勝ち誇った高麗は、唐の援を得て、我国に侵入しはしないかと云う心配が起り、先ず大宰府を中心として、諸城を築き、第二段としては、皇居を中心として、防御を堅めたのである。

吉備真備の建議説。

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天保15年(1844年)作成 論所見取絵図

岡山市沖新田の庄屋文書

藤原深蔵家文書に天保15年(1844年)作成の論所見取絵図有り。

『日本農村の基礎構造研究』 喜多村俊夫 1990年(地人書房)に大平山の野山(のさん)紛争論文

   『ふるさと再発見 草ケ部の物語』 中西厚 平成23年に収録。
   
要点

築地山は独立の峯で小廻りと呼ぶ築地の台があり、境内は大廻りとて五十余町歩もあり、其の四方に四天の仏があり区域を示していたが現在はない。

史跡指定 平成17年3月2日

岡山市東区草ケ部(備前国上道郡)

  標高200mの小廻山を中心とする丘陵に占地

  城塁 約 3.2Km

  鬼ノ城と直線距離 約23Km

  備前平野の中心部 軍事交通上の要衝を占める

史跡指定 平成17年3月2日

  平成元年3月の発掘調査終了後、16年目の指定。

  写真のジクザグが国指定遺跡範囲

  城壁土塁の一つ外側まで指定。

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先行研究者名

長光徳和氏 (岡山県総合文化センター郷土資料室)

           古代吉備国を語る会 主催 長光徳和氏

1971年(昭和46年)4月    上道町が岡山市に合併

1973年(昭和48年)12月~  埋蔵文化財分布調査開始


坪井清足氏(奈良国立文化財研究所長)の現場検証

文化庁  田村晃一氏 仲野浩氏

黒坂昌夫氏(古代山城研究者)の現地視察

調査員 出宮徳尚氏 乗岡実氏 調査補助員 高橋伸二氏

利用計画・発掘調査報告

1980年(昭和55年)

  地権者の高齢化による離農

  農地の転売 山林部分の処分

  地元企業による産業廃棄物処理場としての利用計画

  非公式に岡山市教育委員会へ打診有

岡山県教育委員会~文化庁に発展

1984年(昭和59年)~遺跡確認の発掘調査開始  5ケ年を目処に発掘調査実施

  文化財保護法第98条の2第1項による発掘

  昭和60年1月22日付 埋蔵文化財発掘通知

小廻山付近 土塁と列石

土塁と列石 土塁とは、安土、的土(あづち)とも呼ばれ、敵や動物の侵入を防ぐため、城等の環濠集落などの周囲に築かれた連続した土盛りのこと。 列石(れっせき)とは、遺構の一種で、表面のなめらかな比較的大きな河原石を並べたり、組んだりして列をつくったもの。
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列石と土塁の版築
版築とは、中国の基壇や土壁の施行方法。 玉石を敷いた上に粘土を棒で突き固めて重ねていく方法などがある。日本へは飛鳥時代に仏教建築とともに伝来した。
(北谷頭部土塁)
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一の木戸 石塁

石塁 石を積み上げて作った防御用の土手。 また,それをめぐらしたとりで

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石塁の水門開口部

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築城目的の明確化

発掘調査で、城郭施設、建物、防御用遮蔽設備である柵、板壁等が全く検出されなかった。

築地山は附近の山の中でも低く、なだらかな小山に土を持って築かれている。

都と大宰府を結ぶ唯一の大路である山陽道は、国外からの賓客も利用する最も重要な交通路。

山陽道の駅家は、外国使節の往来を意識して、瓦葦丹塗り白壁な建物に改修されている。

しかし、平野卓治氏説でば、実際に外国の使節が、それらの施設を利用したという記録は無く、瀬戸内海を船で航行していたらしい。

木本雅康説

高月駅家・馬屋遺跡(赤磐市馬屋)に近い。

馬屋遺跡(赤磐市馬屋)全景
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